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人間嫌いのゲイの日記
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人間嫌いでゲイという、とても普通の幸せを手にできそうにない主人公の「私」がつづる日記。 
実際の自分がモデル。
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久しぶりに自分の書いた記事を読んでみると

2008/01/25 03:06
お久しぶりです。

まずは今までコメントくださった皆さん、ありがとうございます。

返事もせずにすみません。


もうコメントくださったこと自体お忘れでしょうけれど、少しずつ

お返事しようと思います。




結局わたしは死んでいません。のうのうと生き続けています。

前の更新から1年と2ヶ月くらいでしょうか。




むかしの人の名言に、


「あの男は本当に17年の経験があるのか。

  1年の経験を17回くり返しただけではないのか。」


なんていうのがあった気がしますが、まさにそんな感じで、

1ヶ月を14回くり返した気分です。




それでも、改めて自分が書いた記事を読んでみると、

「こんなこと考えていたっけ?」

と不思議に思うこともあり、考え方と言うのは意外と変わるものだと

思います。





私は「時間が解決する」という言葉を信じていませんでした。


純粋に時間の経過によって解決される事柄なんて無くて、時間では

ない他の要因によって解決されるか、あるいは単に当事者が問題

そのものを忘れることで解決されるものがほとんどだと思っていました。




しかし、最近、時間の経過が自分の意識や考え方を変えた場面に

出くわし、たいへん新鮮な驚きを感じたのです。



その驚きをどこかに書いておきたい、じゃあ久々に記事でも書こうと

いうことで突然ブログを再開した次第であります。




詳しいことは次回以降に書きます。





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生きても陳腐、死んでも陳腐

2006/11/01 01:26
私は、記事を公開したあと、自分の記事を眺めて
反論を考えるんです。
(そんなことしているから更新が遅いんでしょう)



―――自殺したら自分の本当の価値がバレると思うと
    怖くて死ねない。


でも、よくよく考えると、




私が死んでも、私の本当の価値はバレないかもしれないですよね。


人は往々にして思い出を美化しがちだから、両親ですら私の価値を示す
ような「証拠」に気づかないかもしれません。




さらに、「本当の価値」とひと言で言っても、その価値は値段を
つける人によって、また評価する観点によっても違うから、必ずしも
低い評価になるとは限りません。


私は、世間一般の感覚からして自分に価値があるとは思えませんが、
こんな私に価値を感じるような奇特な人も、いないとは言えません。





また、両親は私に16年という時間と、2000万円以上のお金を
費やしているのは重い事実ではあるけれど、



私が死ぬことが、必ずしも両親の貴重な時間とお金を奪う
とは言えないと思います。




たとえば、私が仮に死んだとしても、宗教は


「息子さんの死はご両親の人生にとって大変意味のあることなのです」

などと囁きかけるかもしれませんね。
これに両親は納得するかもしれないし、しないかもしれない。


そのうち、両親は

「息子が死んでくれたおかげで、全知全能の神・ホラエモンさまから
 幸せに生きるきっかけを与えられたのです!!」

とまで言い出すかもしれない。





要するに、自分の死後のことは、完璧な予想ができないのです。


私はひどく取り越し苦労をしていました。




「死後のことは分からない。だからこそ死んでみる価値はある」


ひょっとするとこういう結論もあり得るのかもしれません。










しかしちょっと考えただけで、この考えは容易に否定されます。




なぜなら、



私の死は、究極的に陳腐だからです。






人間が嫌いで引きこもるようになり、
そのまま自殺。



人生に絶望した青年が自殺。



自分を偽り続けた人間が、苦しくて自殺。



青年が同性愛を苦にして心を病んで自殺。




あまりにステレオタイプな、あまりに陳腐な結末では
ありませんか!


なんのヒネりもない、誰でも考えそうな最期!





しかも上に挙げたような種類の自殺は、
多くの場合報道されません。

公共性がないからです。




あまりに陳腐な私の死には、何の価値も公共性もないのです。





私は



生きても陳腐、死んでも陳腐



なのです。






そう考えると、死のうとすることが
バカらしく、また怖く思えてくるわけです。

(やっぱり人間の価値は死ぬときに決まるんですね)




なんだか、死ぬことについて考えれば考えるほど、
自分が実際に死ぬことから離れていく感じです。





「リストカットを繰り返す」という奇妙な表現が
よく見られるのもなんだかわかる気がします。


本気で死ぬときは、感情に任せて「えいっ」と行った方が
いいのだと思います。


死に自分から少しずつ近づこうとすればするほど、
実際の死からは遠ざかるものなのでしょう。






さて、死について考えたあげく、袋小路に陥った人間は
その先に何を考えるのでしょうか。





(余談ですが、自殺する思春期の同性愛者は一定数いるようです)
http://ww35.tiki.ne.jp/~yossyossy/w_ribbon1.html




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自意識過剰すぎて死ねないんです 3

2006/10/26 19:38
「私が、この現実の世界で自分の価値をごまかし
 続けるには生き続けるしかないのだ」


16の私はそう思いました。




「死んだら、私が豊かな人間関係を築けなかったことや
 冷たい人間観・人生観をもっていたことがバレてしまう」







「別に死んだあと誰からどう思われようといいではないか」

「第一、死後に自分のことを思い出すやつなんていないだろう」



私は考えました。






自分が死んだら、クラスメイトは

「ふーん」とか
「人生に負けちゃったんだね」とか
「そんな風には見えなかった」とか

大して気にかけないだろうな〜

でも、「人生に負けちゃった」はちょっと悔しいな。



そうだな、N君とH君とS君は、もうちょっと踏み込んで

「そういえばよく考えると、一匹羊とこれといって思い出ないな」
とか
「ま、思い出してみると根暗そうなヤツではあったな」
とか
思うかもしれない。






こんな感じで、知り合いを思い浮かべながら、

なぜ、自分の本当の価値をバラしたくないのか考えました。



「負け犬と思われるのがイヤ」

「あいつは自殺するようなヤツだったのか。想像はつくけどね」
と思われると、今までのごまかしが無駄なような気がしてむなしい。


などの理由もありましたが、




一番は、


「両親に、本当の自分の価値を知られたくなかったから」です。



両親は、自分に関する情報をたくさん持っているはずですから、


「そういえばあの時・・・」

というように、
自殺という結果から、私の実態を明らかにする思い出を
多く持っている恐れがありました。
遺品を整理するのも両親です。





私は、「両親の中の自分」を守りたくて仕方がありませんでした。



両親は私に16年という時間と、2000万円以上のお金を
費やしているのです。


この事実はあまりに重いものでした。



死ぬことで2人の人間から、莫大な時間とお金を奪うだけでなく、

「私が本当は価値のない人間だった」と知らせるのですから、

踏んだり蹴ったりなわけです。


私にはそんなことはできません。





「他人の中の自分」が自分の行動の足かせになることは
よくあることでしょう。


そうだからこそ、私たちはしばしば全く新しい人間関係の
中で自分のしたい行動をするのです。
(あえて遠くの学校に行って○○デビューなんかはよくありますね)



ところが、自分の行動を制限しているのが「両親の中の自分」で
ある場合は、一生ついて回るものですからね。
断ち切るのは難しいことだと思います。





「リセットしたかった。」

と言って、
家に火を放ち、母親と兄弟を殺した高校生が
中等少年院に送致されるようですが、


彼は本当に家族を殺したかったのではなく、


家族を殺し、家を焼くことで、自分、とりわけ

「家族の心の中の自分」を殺した
かったのではないかと私は思っています。



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自意識過剰すぎて死ねないんです 2

2006/10/23 00:44
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更新間隔が開いてしまうな〜
1回である程度の分量は書きたいけど、
多く書こうとすると、更新頻度が落ちてしまいます。。
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「自殺したら周りがどんな反応をするか」

それを考えると怖くて死ねませんでした。


「人間の価値はその人が死んだときに決まる」


よく言われるセリフですが、



私は自分の人間としての価値を判断されるのが怖かった
のです。





私は、よくこんな妄想をしていたんです。


「もし私が死んだとき、私は最初から存在しなかったことに
なったらラクだろうに・・・」




ナイフで胸を一突きした瞬間に、私の肉体が消えて
なくなります。


そして死んだとたん、私の部屋の本やCD、その他のガラクタ
が消えるのです。


自分がいた教室からも、棚に置きっぱなしになっている
教科書やジャージ、リコーダーなどが消えます。


そればかりか、誰もが私のことを完璧に忘れてしまいます。



どんな顔をしていたのか

どんな人柄だったか

学校ではどんな活動をしていたのか

もちろん名前も

いつ生まれたかも



誰もまったく覚えていないのです。



私が自殺すると、
私が存在した証拠のすべてが消えるのです。




ああ、なんと言う完全犯罪、
なんと完璧な「自分の価値の粉飾決算」でしょうか。





「私が死ぬと、私が存在した証拠のすべてが消える」


そんなB級SFのようなことがもし可能なら、
私は今すぐにでも死にたい、そう思っていました。
(いまでも思っています。)





でも、現実は違います。



私が死んだら、やっぱり死体は残るし、

死体の残らない死に方をしても、


遺品をすべて処分してから死ぬのは大変です。

たぶん捨て忘れがあるでしょう。








私が死んだら必ず死体が残ります。



死体が残らない死に方をしても、

遺品を全て処分してから死ぬのは難しい事です。



衣類や本だけでなく、実家の古いアルバムまで
処分しなければなりません。


捨て忘れた日記なんか出てきたら大変です。
いろいろな事がバレてしまいます(笑)


とにかく、「自分の実態」が想像できてしまうような
モノを残してはいけないのです。





死体や遺品といったモノを処分できても、
「思い出」を消すことはできません。



この「思い出」が厄介なのです。

これがある限り、私はあらゆる価値判断をされるのです。



どんな人柄だったか

友達は何人いたか

どんな活動をしていたのか

頭はよかったか



さまざまな「思い出」から「私という人間の価値」が
私の死後に形成されるのです。
悪いことに、私の弁解が許されない状態で。






しかも、私の死後には「私という人間の価値」を
決めるように促す儀式が待ち構えています。



そう、葬式です。



葬式に来る人数

葬式に来た人

来訪者と生前の私のつながりの深さ

来訪者が私について語る内容の量と質

私の生前の活動






そのような事柄から
私の価値が測られると思うと、恐ろしくてたまりませんでした。

(葬式で故人の価値などいちいち考える余裕はない
 と知ったのは高校3年に祖父が亡くなったときでした)




葬式のあとも、遺品の整理など、
ことごとく私の価値を測ろうとするイベント満載です。


その後も四十九日、一周忌、果てには十三回忌まで、

いったい何度私のことを思い出すのかという感じです。





「私が、この現実の世界で自分の価値をごまかし
 続けるには生き続けるしかないのだ」


そう思いました。



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自意識過剰すぎて死ねない

2006/10/17 00:27

しばらく更新が空きましたが、また再開します。



今回は、過去の回想というよりは今考えていることを
記事にしようと思います。



前回(時間が空きすぎて覚えていないかもしれませんが)、



人間嫌いの私が生きていくには道は2つしかなくて、

その2つとは



1.何らかの専門家になる。



2.人間嫌いを治し、人並みに生きる



だと考えていた、と言いました。


後に第3の選択肢「道楽(個人的享楽)に生きる」が
加わったとも言いました。






自分で読み返してみて、

「なぜ死ぬという選択肢が書かれていないのだろう」

と疑問に思った読者の方もいるのではないか、と考え、


この記事を書こうと思いました。







そうですね、確かに
「人間嫌いの人間は死ぬのが一番幸せなのでは?」

という考えはやっぱりあります。








「人間嫌いの人間は死ぬのが一番幸せなのでは?」


こうはじめて考えたのは高校2年、いや1年のときだったかな。




それでも、今まで死なずにいます。




別に、宗教上の理由とか、生きる意味を感じた、
とかいうわけではありません。




自意識過剰すぎて死ねなかったのです。




「自殺したら周りがどんな反応をするか」

それを考えると怖くて死ねませんでした。





「人間の価値はその人が死んだときに決まる」


よく言われるセリフですが、



私は自分の人間としての価値を判断されるのが怖かった
のです。




私は外面的には問題のないように生活していました。
(いろいろバレていた事もあるのかもしれませんが)



周りの人間関係にも大きな問題はなく、成績も普通でした。

(いや、成績が普通なのはウソです。体育と数学は非常に
苦手でした。)





しかし、私は自分自身が抱えている問題を知っていました。



「いま死ぬことは、自分の価値を粉飾決算することだ」


そんな風に考えていました。




そしてその粉飾決算がバレなければ、

「死は成功した」ことになるのでしょうけれど、

そうそう上手くいくはずがありません。






第一、自殺する時点でもう


「自分は問題大アリでした!」


と高らかに宣言することになります。




それからしばらく、私は自分が死んだあとの
周囲の反応について考えていました。




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人間嫌いを克服したいと7年間思い続けた果てに 2

2006/09/30 00:59
私は、人間嫌いを克服することにとらわれつづけてきました。


「7年かけて無理だったんだから、もうあきらめたら
良いではないか」


確かにそうかもしれません。


そもそも、なぜ「人間嫌いの克服」に執着してきたの
でしょうか。




それは、「人並みに生きたい」と思ったからです。



私は、高校2年の頃には、すでに自分が人間嫌いで
あることを自覚していましたし、性的嗜好が周りとは違う
ことも気づいていました。



「このままでは幸せにはなれない」


何が自分にとって幸せなのか、そんなことはわかりませんが、
ただ漠然とそう思っていました。




「結局、最後は人のつながり」

当時からそう思っていましたし、また、

「人間関係が上手な人は仕事での苦労が少ない」

とも考えていました。




そんな時期に、私はネットの占いをしました。
ちょうど「自分の値段占い」などが流行っていた頃です。


私がした占いは、長期占いのようなもので、いくつかの質問に
こたえると、0歳から100歳までの各年齢における幸福度が
折れ線グラフで示されるというものでした。


私は、占いなんて全然興味がないので結果なんてすぐ
忘れてしまうのですが、この占いの結果だけは覚えて
います。


結果が、あまりにも自分の思っていた通りだったからです。



16歳まではずっと+(幸福)で、そこから運気が−(不幸)
に下がり始め、50歳くらいまでずっと−のまま。
そこからまた+に転じたり、−に戻ったりしながら
85歳頃に人生の絶頂を迎えます。


そうかと思えば、推定死亡年齢は75歳くらい。



死んでから幸せの絶頂って、いい加減な占いだと思い
ましたが(案外当たってるのか?)、この占いの結果には
考えさせられましたよ。



私は、主観的にはいま全然幸せじゃないけれど、
客観的に考えると十分すぎるほど恵まれているんだって。



ちょっと間違えばイジメに遭っていたようなタイプの人間が
特に大きな問題もなく学校生活を遅れているのだから。



でも、私はそれが運によるものだと知っていました。
私に適応能力があったからではないのだと知っていました。




だからこそ、先のことが不安で仕方なかったのです。


「この先、このままではとてもやっていけない。」

「いまが実は一番しあわせなとき」

「この先、私は幸せにはなれない」


そう思っていました。



だから、18歳から50歳のあいだ、ずっと不幸という
占いの結果に、妙に納得したのでしょう。




いま私は22歳です。

結果論から言うと、また人に恵まれ、客観的には
16の時より恵まれた経験ができました(その話は後々)。




さて、16の私は考えました。

これからどう生きれば良いのか、と。



私は、
「人間嫌いの人間なんて、社会に必要ではないし
本人も不幸なだけだ。」

そう当時から考えていました。今もそう思っています。


自己否定をしていたわけです。




私には2つしか道がないように思えました。
(いまでは、道楽に生きる、という選択肢も加わりましたが…)



1.何らかの専門家になる。

要するに、
「自分の人格を必要とする人はいなくても、
自分の仕事を必要とする人はいるはずだ。」

という考えです。



2.人間嫌いを治し、人並みに生きる





結局、最終的に私は

2.の人間嫌いを治す、を選びました。



いろいろ曲折はありましたが、
なんだかんだ言って、普通の幸せを手に入れられるなら
それが一番だと思ったわけです。

専門家になるよりは、人並みになる方がたやすい、
という甘い考えもありました。




結果論から言うと、この選択は大失敗でした。

人並みになるというのは、私にとって並大抵のことでは
なかったのです。

考えが激甘でした。



しかも、失敗したときのことをまったく考えていませんでした。



人間嫌いを治せなかった私は、

「人並みに生きる幸せを全く受けることができないド凡人」

になってしまったのです。










だいたい、ダイジェストだとこんな感じです。
ちょっと長くなってしまいました。


次からは詳細に書いていこうと思います。



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人間嫌いを克服したいと7年間思い続けた果てに

2006/09/26 22:01
高校2年生の頃の私は、人並みでない自分、特に人間関係において
人並みでない自分を変えたいと考えるようになっていました。



対人関係能力が高ければ、これから生きてゆく上での困難の
半分以上はなくなる気がしました。



以来、私のもっぱらの課題は

「人並みでない自分をあと70年どう生かすか」

となったのです。




結果から言うと、


結局人間嫌いを克服することは出来ませんでした。


もちろん、昔からそうだったように、人と普通に接することは
出来ているつもりですが、


目の前の人間と親しくなりたいとはちっとも思っていないのです。




私は、形から入るタイプなので、まず他の人の振る舞いを
観察してまねるようにしてみました。


そうしているうちに、自然と人と接しているのが好きに
なれるかもしれないと思ったからです。





しかし、ダメでした。

人の前でそれなりに振舞えるようにはなりました。


周りの人間に恵まれたのが大きかったと思いますが、
スムーズな人間関係だったと思います。




でも、私の振る舞いは、いわばコスプレでした。

いつも自分がちゃんと振る舞えているか不安でした。


多くの人と接するうち、

「よほどのことがない限り、人は他人の振る舞いに
文句を言わないし、そもそも他人の行動を意識していない」


ことはわかってきたのですが、
逆に、文句を言われないぶん不安でした。






「とりあえず、表面的にうまくいっているのだからいいのでは」

何度も自分にそう言い聞かせました。



でも、友人から次の質問をぶつけられるたびに、我に返って
しまいます。





「一匹羊ってさ、好きな人とかいるの?」







私は、この問いの前では絶対的に無力でした。


人に対し心からの親しみを感じることが出来ない人間が
生きている恥ずかしさに身悶えしながら、
「何とかうまい逃げ方はないか」と考えるわけです。




しかも、人間とは不思議なもので、どんなに他の話の内容は
忘れても、この種の話だけは、誰が、誰を好きだと言ったか
はっきり覚えているものなのです。


だから適当に嘘をつくと誰かに迷惑がかかる気がして、本当に
困ってしまいます。




最近は、私も少し図々しくなったのか、


「いないけど、○○がモテるのはわかる気がする〜」

とか

「いないけど、××の声がかわいいと思うことはある」


とか言えるようになりましたよ。




でも、これがベストな答えなのかは全然わからないし、
ベストな答えが言えたとしても、それが自分の「成長」を
あらわすとはまったく思えません。



結局、7年間かけて、私は人に対しての振舞い方をある程度
身に付けましたが、私が人に対して愛おしさを感じることは
とうとうなかったのです。





「7年かけて無理だったんだから、もうあきらめたら良いではないか」


確かにそうかもしれません。


そもそも、なぜ「人間嫌いの克服」に執着してきたのでしょうか。




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